雪国黄精の
平成19年度 義烏・重慶・上海6泊7日の旅
 平成19年4月6日。
 今年はGWの旅行予定をずらし、混雑とは無縁の中国旅行ができました。
 同伴者は女房。今回も中部国際空港と付近の民間駐車場を利用しました。
 この日の出発は8:00。自宅から岐阜県の恵那まで一般国道を走行。あとは中央道~名古屋高速~知多高速で15:00頃駐車場に到着しました。
 中国南方航空公司の名古屋~上海~深圳便を利用し、20:30頃に上海浦東国際機場(空港)に到着し、最初の目的地である義烏に向け移動を開始しました。
 上海浦東国際機場から上海火車站(鉄道の駅)までは高速バスに乗車して、義烏までは夜行寝台列車で移動する計画でした。
 高速バスを降りると、いつもの如く、ホテルの「仲介屋」が数人押し寄せてきて「今日はどこに泊まるのか」、「今日の××ホテルは空室があるから安くするよ」と言いながらしつこく私達に付き纏って来ました。私達はこの夜はホテルに泊まる必要がないので、その旨を正直に話してあとは無視していましたが、プロゴルファーの丸山茂樹にソックリな顔をした男性の仲介屋一人は火車站の切符売り場まで付いて来ました。
 私達は不運にも、満席で夜行列車の切符が買えませんでした。切符の買える最も早い列車は翌日の4時発ということで、これでは旅行初日からスケジュールが成り立たなくなってしまいます。ならばバスで移動しようかと考えたところ、丸山茂樹似の男は「自分はホテルだけでなくバスと長距離タクシーの手配もできるんだ。義烏を経由するバスも今夜は満席だが、長距離タクシーならある。ただタクシーは違法車だが、義烏までならば120元にしておくよ。絶対に騙したりはしないから俺に任せてくれ。タクシーは呼べばすぐに来るから。絶対に騙さないから。信じて下さい!」と、かなり営業熱心です。
 私達は協議の上、リスクは覚悟して白ナンバーのタクシーを呼ぶことに合意しました。もしもこの日中に出発できなければ、その後の交通機関とホテルの予約はすべてキャンセルし、予約し直さなければならないからです。丸山茂樹似の男はすぐに仲間に向けて携帯電話をかけ、何と3分も待たぬうちに白タクが来ました。車は9人乗りのミニバンで、私達が乗ると合計12人の乗車になりました。横1列3人乗りのシートに4人が乗車しているのです。乗客の手荷物も足元に置かれているので、足を折りたたんだままで体を動かすこともできない状態です。そのままエコノミークラス症候群で死んでしまいそうでした。
 白タクは0:30頃に上海火車站を出発し、高速道路を約300km離れた杭州に向けて走り出しました。この運転手は出発するやいなや強引な車線変更と追い越しを繰り返し、ほかのどの車からも追い越されることはありませんでした。但し周囲の安全確認を徹底しており、信頼のできる運転手であると感じました。このとばし方は高速道路に入ると更に強烈で、最高速度制限120km/hの追い越し車線を140km/h位で走行したり(スピードメーターが((恐らくは故意で))外されていたので速度は私の推測。)、3車線すべてが低速車で塞がっていれば緊急停車帯を激走したり、車間をギリギリですり抜ける車線変更など、気の弱い乗客ならば乗っていられない程の危険行為を繰り返しながら2:45頃に無事(?)杭州に到着しました。ここで、私達を含め義烏へ向かう乗客4人と、更に別の地方に向かう乗客5名が下車して新しい乗客3人が乗り、白タクはまたどこかへ向けて出発して行きました。
 ここで15分位待つと、出発地不明、義烏経由除州行きという長距離運行の寝台バスが到着し、私達はこのバスに乗らされました。
寝台バスと言っても、中型バスにステンレスパイプの溶接でフレームを取り付け、無理矢理に2段式のベッドを設置した古臭いバスでしたが、白タクの暴走運転で眠りに着けなかった私達は何とかこの車内で1時間程度の眠りに着くことができました。
 義烏のバス停車場から義烏の市街まではタクシーに乗り、タクシーの運転手が勧めるホテルで3:30から8:00までの仮眠休憩を取りました。
 平成19年4月7日。
 義烏は中国最大の卸売市場がある地方都市で、外国からも大勢のバイヤーが訪れる名所として日本でも知られるようになってきました。しかし私達は買い付けが目的ではなく、世界的な卸売市場とは一体何なのかを肌で感じ、見学するためにわざわざここを訪れたのです。
 去年訪れた万里の長城は、世界遺産として十二分に価値のある名所であり、それを見て「これが万里の長城かーーーーーーっ!!」と叫び、驚いても恥ずかしくない観光スポットでした。中国にはこのような世界的な観光スポットが相当数ありますが、今回は観光の目玉を義烏に設定しているのです。
 私達はホテルを8時半に出発し、途中朝食を摂りながら歩いて近くの中国義烏国際商貿城に行きました。
 中国義烏国際商貿城は玩具、日用品、装飾品、小電気製品を扱う義烏最大級の巨大な卸売市場です。卸売市場はこの建物だけではなく、大小の卸売店が義烏市内のあちこちに存在します。義烏にはホテルが多いのも特徴的でした。それだけここを訪れるバイヤーが多いということでしょう。
 中国義烏国際商貿城では、まず1Fの玩具フロアーに入りました。
 これは一目見て、昨年万里の長城を初めて見た時に匹敵する衝撃でした。今までに、これほど多くの玩具類を陳列して販売している場所を見たことがなかったのです。日本では絶対にあり得ない光景でしょう。私は興奮して「ウオーーーーーーーーッ!!」と叫び声を上げました。義烏に来て本当に良かったと思いました。
 広いフロアーの中は、この様な出店ブースが150店はあったと記憶しています。この玩具フロアーで販売されている玩具の種類は、日本で販売されているすべての中国製玩具(キャラクターなどの版権のあるものを除く)のほぼ100%をカバーしていると言えるでしょう。

 これはゴム製のお面のブースです。日本で、100円ショップ等で販売されているものはこの中の一部分に過ぎません。
 女房は上の階の装飾品販売フロアーで水晶のネックレスを1本買おうとしましたが、やはり、一般客への小売りはしないということでした。これは日本で最低1000円位で売られているものでしたが、卸売価格を聞いたところ、100本で8.5元(1元≒16円、日本円で約140円)ということでした。「義烏の卸売価格は日本での小売価格の10%」は本当でした。
 その後、女房はこの建物から少し離れた小型の卸売店で玉製の腕輪を日本での1/10以下の価格で購入することに成功しました。
 この後、福田珠宝飾品専店街という卸売市場と、今後の旅行行程で必要となる食品を買い込むためスーパーマーケットにも入りました。
 去年の北京で印象に残った「レッドブル」は、義烏のスーパーにもありました。価格は去年の北京と同じ6元で、迷わず買いました。
 レッドブルは、日本では未だに発売の許可が下りていないようです。
 昨晩、短時間の睡眠しか取っていない私には最適のおいしい飲み物でした。
 今回の旅行スケジュールは過密で、義烏には夕方までしか滞在できず、どの卸売市場もただ見て回るだけとなってしまったのは予想通りでしたが、やはり残念でした。
 このあとすぐに義烏火車站へ移動し、次の目的地、重慶に向けて移動しました。

 義烏火車站です。新駅舎が最近になって完成したと言われ、駅舎の前に駐車場があるだけで、周囲は農地のままで駅正面の道路に面して仮設の食堂や土産物屋が40店ほど出店していました。
 18:00に列車に乗り、重慶まで約2日間の列車の旅が始まりました。
 私達の座席は2等3段式寝台の上段でした。通路が狭く、乗客の荷物が通路にも置かれているので、通路に長時間いると乗客の移動の邪魔になります。仕方なくできるだけベッドで横になっていましたが、天井までの高さが非常に低く、起き上がることができません。飲み物を飲むにも寝ながら飲まなければならず、不自由極まりない寝台車でした。
 寝台車には乗客の就寝時間、起床時間が決められており、夜9時に消灯、翌朝6時に車内放送(BGM)が始まり起床時間となっていました。夜9時頃ならばまだベッドに横になって新聞でも読んでいたい時間で、消灯は早過ぎますし、朝6時でまだ暗いうちの起床時間は早過ぎると思いました。
 平成19年4月8日。(一日中車内にいる。)
 車窓から景色を見るには、ベッドから抜け出して通路に出なければなりませんでした。それでも、せっかく旅行に来たのだからと思い何度も通路に出て景色を眺めることにしました。
 列車は義烏を出て浙江省、江西省、湖南省、貴州省、重慶市の順で中国内陸部に向けて60km/h程度のゆっくりした速度で走ります。
 主要な駅の周辺を除けば、車窓からは農村しか見えません。浙江省、江西省は乾燥した農地で野菜類が栽培されていましたが、土壌が農業に不適で、生産性は悪いであろうと感じました。農民は牛を利用した田畑の耕耘を行っていました。
 湖南省に入ると数多くのトンネルをくぐり、山地に入って来たのが分かりました。川沿いの線路や谷を越える高架橋などのある交通の難所です。やがて貴州省に入り、多雨気候で湿潤した山間部の農地(左画像)で野菜類が栽培されている風景になりました。
 列車内で、私にとって今まで経験したことの無い非常事態が発生しました。
 列車の中が不衛生なので、足を虫に刺されたのです。
 何の虫かは分かりませんが、ズボンの足首から入ったようです。足を数箇所刺された後、次第に刺された箇所が増えていき、列車を降りた時は足を10箇所程度、腕や脇腹も6箇所刺され、掻いた後は傷付き、大きく腫れ上がっていました。
 中国で長距離列車の旅をお考えの方は、虫除け剤と強力な痒み止め薬を携行することをお勧めします。
 平成19年4月9日。
 日本から持参した缶ビールの最後の1本を消費しながら通路に出て車窓の景色を眺め、10:00頃やっと終点の重慶火車站に到着しました。すぐにタクシーに乗り、ホテルに到着してまず体を洗い、近くの薬局で痒み止めの薬を買って虫さされの手当を行いました。この痒みは旅行後も数日治らず苦しみました。
 重慶火車站周辺は市街地の建造年代がかなり古く感じられ、上海などの東部の沿岸都市に比べるとかなりテイストが違います。
 この日は、現地の旅行会社に半日のパッケージツアーを申し込み、午後から市内の名所巡りを行いました。
 パッケージツアーは、ワゴン車に運転手と添乗員が付き、湖広会館、磁器口、中美合作所の渣滓洞と白公館、最後に翡翠アクセサリーの展示即売店を見学するという小旅行でした。
 参加者は私達を含め10人で、広東省から来たという老人の団体が6人参加していました。
 画像は湖広会館で、重慶の移民の歴史と清代の役人の生活の様子を展示した見学館でした。
 磁器口は、人類最古とされる2万8千年前の文字が発見された場所です。中国の姓の歴史とその文字の起源についての展示館と数多くの物産店からなり、非常に見処の多い観光スポットだったのですが、展示館を見学した後はわずか10分の自由時間を与えられただけで物産展では何も買うことができず、急いで次の見学箇所に移動させられました。
 次は街を離れ、旧時の国民党とアメリカ軍が共産党の思想犯、政治犯を収容した監獄のある「中美合作所」の見学でした。
 共産党の人民解放軍が勢力を強めてきた1949年11月、国民党はここに収容していた囚人を全員虐殺して逃走したと言われています。囚人は中国共産党にとっては不慮の死を遂げた「烈士」と呼ばれ、この近くの墓地に安置されています。
 中美合作所の渣滓洞には売店があり、毛沢東グッズと一般に呼ばれるバッジや時計、置物などが販売されていましたが、私は今までに見たことのないレア物を1点だけ見つけ、値切るのも忘れ、即座に購入しました。これは「目撃中国50年」というVCDの9枚組セットでした。日本ではほとんど放映されていない旧時代の中国での出来事を映像で綴ったドキュメンタリーです。帰国後鑑賞しましたが、数万人の一般人が大規模河川改修工事を人力施工する様子や、人民解放軍の侵攻、文革など、初めて観る珍しい映像の連続に大いに満足しています。
 これは渣滓洞の収容所の内部で、女性用の牢獄です。当時の状態が保たれています。男性の牢獄は窓もなく真っ暗で写真になりませんでした。
 展示館には、投獄された共産党「烈士」自筆の詩や日記などが展示されていました。
 広東省から来たという老人達は、ひとつひとつの展示物を食い入るように眺めていました。
 最後の翡翠アクセサリーの即売店は、日本の山梨県にある水晶加工品の即売店の構造とセールス方法を模したものでした。
 始めに会議室の様な小部屋に客を入れ、店長が本物の翡翠と偽物の翡翠を使ってガラスをこすったり、割ったりしても本物の翡翠には傷が付かないという実演を見せ、翡翠を買う時はこうして真贋を判断させてくれる店で買うものだぞという講義の後、客全員を別室の即売店店舗に移動させ、始めから価格を高く設定したであろう商品を市価の10分の1の安さだと言って販売するという手法でした。しかし、いくら安売りと言っても腕輪やネックレスが元値20,000元~30,000元の10分の1(日本円で3万円程度)ではやはり安い買い物とは言えず、誰も買う人はいませんでした。

 パッケージツアーは18:30頃終わり、夕食は重慶名物の火鍋と決めていました。
 街を歩いていたところ、朱氏胖子爛火鍋という火鍋の専門店が目に入ったので、2人でゆっくりと火鍋を味わうことにしました。
 火鍋は数年前に上海で食べたことがありますが、激烈な辛さのため冷水を飲まなければ食べ続けることができず、一度懲りているので今回は唐辛子と山椒の実を後から入れて味をコントロールできる火鍋を注文しました。これには私は大満足でしたが、女房はタレに入っていた大量のゴマ油が油っこくて食べられず、そればかりか腹を壊してしまいました。女房は「重慶に来て火鍋はもう懲り懲り」と言っていました。
 この後私達は街の中心部に向けて夜景を鑑賞しながら繁華街を歩いて行きました。そして重慶市の繁華街の中心地、解放碑に辿り着きました。左の画像は解放碑付近の様子です。画像をクリックすると拡大表示されますので、どうぞ御覧下さい。
 今までに訪れた中国の繁華街では、上海の南京路が最も大規模で美しいと感じていましたし、後に北京市最大の繁華街と言われる王府井も訪れましたが、南京路と比べると商業施設が充実しておらず、完全に見劣りがしました。しかし、今回訪れた解放碑周辺の繁華街は上海の南京路に比べ、建物はどれも新しく近代的な高層建築で、常時歩行者天国となっている区域がとても広く、人通りも多く、商業施設が充実しており、中国のあらゆる大都市を渡り歩いた経験のある女房が言うに「中国一の繁華街と形容してもおかしくない」ということです。日本で販売されている旅行ガイドブックにも重慶の市街地がここまで発展しているという記載はありませんでしたので、この繁華街を見ることができたのは想定外の喜びでした。
 私達は、まず新世紀百貨というデパートで衣類などを買いましたが、私が吟味して買ったジーンズは98元(日本円で約1570円、丈詰め無料)でした。名の知れたデパートの商品なので品質の良さは保証済みな上、この価格の安さは上海で買うよりも得だと判断して買いました。
 ほかにも私はコンピューター製品や書籍、女房は化粧品と土産物を買う予定があったのですが、デパートを出た時点で時間が21:45を過ぎていたためほかの店も閉店してしまい、翌日またここに来ることに決めてタクシーでホテルに帰りました。

 画面中央右の時計台のような塔が解放碑で、右側の建物が新華書城である。2つ上の夜景の画像も含め、交通信号機が無いのがお分かりであろうか。この一帯は常時歩行者天国なのである。(画像をクリックすると拡大表示されます。)
 平成19年4月10日。
 今日の夕方には重慶を離れなければなりません。9:00に解放碑に着き書店、デパート、飲食店などで買い物をしまくりました。
 前日は夜間で見えなかった周辺の高層建築の多さにも驚きましたし、こんなにエネルギッシュな街が中国の辺鄙な内陸部の一角に実在しているのだという奇妙な感覚を味わいました。
 ここではしばらく足を止めて街の風景を観賞し、写真を撮影しました。
 この旅行記を御覧になった方で中国へまだ旅行されたことのない方、また上海でショッピングをされた経験のある方には自信を持って重慶の観光とショッピングをお薦めします。(但し高級品を扱う店は極めて少ないです。)
 昼食は小喫店(食堂)で一人一食2.5元の麺を食べました。上海の1/5程度かそれ以下の価格でありながら、辛みが効いてとてもおいしいスープの麺でした。この旨さ、安さもまた重慶の魅力でした。まだまだ見たい物、買いたい物、食べたい物は数多くありましたが、帰りの時間が到来してしまったことを悔やみ、また機会があれば絶対にここに来ることを誓い私達は解放碑の繁華街を後にしました。
 解放碑からホテルへの帰途に、前日夜にタクシーで通り掛かった重慶古玩城という骨董店に寄りました。
 重慶古玩城は、地下2階、地上4階(位)の建物で、各フロアーに30店位のブースがあり、地下と地上2階までが入場可能でした。しかし売られている商品にあまり価値の高い物はなく、客が非常に少なかったので早々と店を出て、「跳蚤市場」という近くの露店市場へ行きました。
 露店市場では日用品、服飾品、DVD、中古家電など多彩な露店がどこまでも並び、周辺の建物もかなり古く、今までに訪れた上海、厦門、深圳などの都会的な露店市場とはかなり風情の変わった生活臭のある市場でした。私達は、日本で買えば1双200円はする靴の中敷で、手作りの高級品を1.5元×4双と、ベルトを10元(これと同じ物は上海で40元で売られていた。)で買いました。
 当然ながら海賊版、違法コピー版の商品も山ほどありましたが、私はこれらを見ると、最初に上海を訪れた時に見たdunhill似せのdanball(段ボール)という偽ブランドのライターを思い出します。おそらく日本語の知識のある冗談好きな人が考案した偽ブランド名だと思います。そのジョーク・センスもさることながら高級感を漂わせた精巧な出来栄えは私の目を惹き付けましたが、このような商品はいくらでもあるのだろうと思い、その時は買いませんでした。しかし、年月が経つにつれそのライターを買わなかったことに対する後悔の気持ちはますます強くなっています。以後中国の日用品売場でライターを見たら必ずdanballのライターを捜していますが、一度も見つかったことはありません。残念ながら重慶にもdanballはありませんでした。「中国では、欲しい物があったらその時は高くてもすぐに買え。あとから同じ物が見つかるとは決して思うな。」とは、ある旅行ガイドブックに記載されていた言葉ですが、この意味が痛切に実感できました。実際、中美合作所の売店でVCD「目撃中国50年」を買った時は、バスの運転手に「そんなものは書店でもっと安く買えるし、類似した物は沢山売っているのに。なんでこんなところで買うんだい。」と馬鹿にされたのですが、後で訪れた重慶最大の「新華書城」ではこれと同じ物も、類似の商品も見つかりませんでした。
 露店市場に沿った商店街の中に理髪店が散在していましたが、男性の散髪で最も安いところは1.5元でした。日本円で30円です。全く以って驚異的な安さです。時間があれば散髪をしてもらいたかったのですが、スケジュールに追われていて完全に不可能でした。
 重慶古玩城からホテルに帰る方向は分かっていたので、露店市場を見ながらホテルに帰ることにしました。
 左の画像では、食料品店の並ぶ市場です。野菜、菓子、肉類、そして生きたアヒル、兎、鶏、蛙、金魚も売られていました。行く先の店にはどんな珍しい商品があるのか、ワクワクしながらあっという間にホテルに着いてしまいました。結局ホテルに着くまで延長約2kmに渡って露店市場が軒を連ねていました。この露店市場を見る面白さもほかでは経験したことのないものでした。重慶市街地では急速なスクラップ&ビルドが進んでいますが、この露店市場の光景は次回来る時も同じ雰囲気で残っていて欲しいと思います。
 ホテルからタクシーに乗り、重慶江北国際機場(空港)に向かいました。市街地を離れて高速道路を使い、1時間15分で到着しました。
 重慶の空港は予想外に小規模でした。中型機が発着するための最低限の設備と言えるでしょう。日本の新潟空港より少し大きめの規模の建物でした。
 ここから国内線に搭乗し、20:00頃に上海浦東国際機場に着きました。
 夜は上海市内で義祖母の住むマンション近くのホテルに泊まり、親戚と一年振りの再会を喜び合いました。
 平成19年4月11日。
 この日の日中の上海市での私達の行動は、プライベートな要素が強いため公開できません。ごめんなさい。
 さて、昼頃上海の新世界デパートでショッピングを楽しんだ後、南京路方面を撮影(今回、南京路には行きませんでした。)したのですが、重慶の解放碑繁華街の迫力に圧倒された私達は、それまで中国最大の繁華街だと思っていたこの南京路を見ても、もはや何とも思いませんでした。
 外観上大きく変わったのは、新世界デパートから南京路を望む交差点上の円形の歩道橋が撤去されており、左の画像の如く殺風景になってしまっていたことでした。円形の歩道橋は南京路を高所から眺めることができ、街の景観にもうまく溶け込んだ観光名所だっただけに残念です。
 なお、新世界デパートは入口が改装されており、名物の「日本の三菱電機が製造したという看板の掲げられた曲線の軌道を持つ珍しいエスカレーター」はそのままの形で残されていました。
 上海最大の書店「上海書城」にも入りましたが、重慶の新華書城に比べると書籍の在庫は2/3程度しかありませんでした。以後、大型書店を目当てに中国の大都市を訪れるならば、重慶の新華書城さえ見れば上海の書店に来る意味は無いということが決定付けられました。
 平成19年4月12日。
 旅行の最終日が来てしまいましたが、やり忘れていることがありました。そう。最終イベント、「欧尚」での食料品の買い溜めです。
 今回は、女房が親戚との面会時間を長く取りたいと言うことで私一人がスーパーマーケット「欧尚」でショッピングをすることになりました。
 開店時間を前日にあらかじめ調べておき、開店と同時に入店しました。
 ここまでの長旅によりスーツケースと手提げカバンは買った商品で満杯になり、携行する荷物が大重量になっていたので、まず店内でリュックサックを買い、中華食材、家族と勤務先への土産、健康酒、DVDソフト、書籍等を買い溜めしてリュックサックに詰め込みました。
 今回も、中国に住む親戚と次回の再会を誓い合い、バス(画像は市街地の路線バス)に乗り継いで空港に着き、中部国際空港から当日中に無事帰宅することができました。
 旅行後記

 今回の旅行は、7日間という限られた日数で3都市を周遊し、うち1日半は長距離寝台列車で過ごすというものでした。
 今までにも夜行寝台は開封~上海間で利用したことがありますが、夕方に乗車して翌日午前中の到着で、長時間乗車したという感覚が無く、列車による旅行を十分に楽しめなかったため、今回は嫌になるほどの長時間の乗車を経験しようと思ったのです。しかし2晩の乗車で体を洗うことができず、髪や肌がべたついて気持ち悪くなり、おまけに全身を虫に刺されるという不測の事態で、長距離列車という移動手段を今後積極的に採用することはやめることにしました。旅行では安全と時間を金で買うことも必要だというセオリーを再認識して次回の計画に生かそうと思います。義烏では最低2日、重慶では最低3日の滞在期間が観光には必要ということも分かりました。
 最後にもう一言。重慶は中国最高の観光スポットです。自信を持ってお勧めします。

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